S/W

□甘い闇にくちづけを
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 ―――夢を見ていたようだ。綾一はぼんやりとした頭でかろうじてそのように理解した。サイプリスが眠る腹のあたりにベッドサイドから突っ伏していた半身を起こすと、カーテンを開け放った窓の外は既に昼間に近いらしかった。太陽が随分と高い。
 あのサイプリスの顔が、忘れられない。穏やかに笑んで、見送ってくれた友人の表情が。あの表情は釈然としなかったものをすべて洗い流してしまったのだ。明らかに、考えが甘かった。不自然だと、何か妙だと思いながら、緋薔館を去った己れを、いっそ殺してしまいたい。綾一は歯噛みする。
 あの電報がやはり偽物だったことを知り、とんぼ返りで東京から引き返した彼が見たものは、サイプリスに群がる町の男たちだった。彼等は各々手に刃物や鈍器を持っており、それらはサイプリスの血で濡れていた。
 今でも眼裏に焼き付いているその光景に、綾一は身震いをした。
 どうして館を離れた。どうして彼を無理矢理にでも連れて行かなかった。―――とめどなく沸き上がってくる後悔に、正直うんざりした。何もかも忘れてしまうことができたら、どんなにか楽だろう、と思い、薄く笑む。所詮、そんなものは夢物語だ。最も辛かったのは、綾一ではない。痛みも、苦しみも、―――すべてその身に請け負ったのは、サイプリスただひとりだった。

 静かに眠るサイプリスの身体は、冷えきっていた。血の気のない肌はひたすらに白い。臘人形のようだ、と綾一はひとりごちる。目を閉じたサイプリスがほとんど無表情であることもそのように感じた所以の一つだろう。あの穏やかな笑顔は、もう何処を探しても見当たらない。あるのはただ、綾一の脳裏の中だけだ。
 綾一は小さく息をつき、瞳を閉じた。その拍子に一筋溢れた涙が、サイプリスの手の甲に落ちる。

† † †


 サイプリスの病は、彼がまだ英国にいた頃に発症したという。サイプリスはその病がゆえに綾一が他の人間と同様に彼を敬遠するのではないか、ということを恐れていた、それはなんと愚かなことだろう、と思う。―――綾一にとってサイプリスは誰よりも信頼できる人間で、家族にも替えがたい存在となっていた。友人でも恋人でもない―――そんな言葉では言い表すことのできない関係を、築いてきたのだ。
 彼が血液を嗜好していようと、気味が悪いとは微塵も思わなかった。―――たとえ彼が「病人」で綾一が「医者」でなかったとしても、綾一はサイプリスに血液を分け与えたろう。
 否、与えるなどと大層なことをしたわけではない。―――ただ、彼の役に立ちたかった。助けてやりたかった。それだけだったのだ。

「サイプリス」
 綾一はサイプリスの手を握った。硬くなったそれが、綾一に応えることはない。静かに額を近付け、押し当てる。
 冷たかった。
「馬鹿野郎、……目を覚ましてくれ」
 もう夕刻だぞ、と。
 思えば、サイプリスはいつでも綾一より朝早く起き出していたものだった。だから、綾一がサイプリスを起こすということは今まで経験がなかった。目を覚まさない者を起こすということはこんなにも焦れるものなのか、とひどく冴えた脳内で思う。
 脳内は、冴えているのだ。自分が成すべきことも、現実を受け入れなければならないことも、分かっている。それでも、サイプリスの側を離れる気にはなれなかった。せめて今だけは、と思う。
 眠っているサイプリスの傍らに居ると、己れがどれだけ彼に依存していたのか実感するようだ、と綾一は瞑目した。かつてサイプリスは繰り返し、綾一に頼りきりになってしまっていると詫びていた。―――実際に頼っていたのは自分の方だったというのに。綾一は小さく嘲笑を漏らした。それは虚しく静寂を破る。
「君がいなくちゃ、俺は何にもできないんだな」
 サイプリスの右手を自身の両手で包み、綾一はそれを口元に添えた。まるでロザリオに口付けて礼拝するように、ひたすら彼の復活を祈った。











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