過去拍手収納庫
□香
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街が夕日に赤く染まる頃。
廃工場では、グラハムが『あの子』の忘れ物と思しき物を前に、難しそうな顔をしていた。
「な、なあ……これってあの子の忘れ物だよな」
若干ドギマギとした様子のグラハムが手にしたのは、毛糸のマフラー。
大事そうに腕に抱いて、傍に居たシャフトに振り向いた。
「……そっすね、そんなマフラーしてたような気がします。
ていうかいい加減『あの子』とか『彼女』って言うのやめませんか、分かりにくいんで」
「シャフトの分際で何を言う、生意気だぞ!
俺はただ好きすぎて名前を口に出せないだけなのに、何が分かりにくい、だ!」
『あの子』というのは、グラハムの恋している少女だ。
照れてしまって名前が呼べず、本人の前では『おい』とか『あのさ』、本人の居ない所では『あの子』や『彼女』で済ませている。
そして、グラハムが名前を呼べないのに、他人が彼女の名前を呼ぶのは癪に障るらしい。
彼は自分の部下には『俺より先に彼女の名前を呼んだ奴はぶっ壊す』と言っているのだ。
「いい加減あの子の名前くらい言えるようになって下さいよ、もう……」
しかし、呆れたようなシャフトの声はすっかり無視。
「ああ……、いい匂いがする……」
グラハムは彼女のマフラーを愛おしげに抱き締め、顔を埋めて大きく息を吸い込んでいた。
その頬はほのかに赤く染まり、どこか恍惚とした幸せそうな表情だ。
「ちょ、匂いって!………ほとんど変態じゃないすか。本人に見せてやりたいですね」
さすがに見かねたシャフトがグラハムの腕からマフラーを引き抜いて、悪態と共に深い溜息をつく。
「何をする!……お前には彼女の香りはお裾分けしてやらんぞ、全部俺のだ!」
グラハムはシャフトの手からマフラーを奪い返すと、普段彼女が巻いているのと同じ巻き方で自分の首に巻きつけた。
その子供じみた仕草に、シャフトは返す言葉も思いつかずに再び溜息を漏らしてしまう。
「ああ、しかしあの子は寒い思いをしていないだろうか。心配だ……」
首に巻いたマフラーに頬を摺り寄せるようにしながら、グラハムは憂鬱そうな声を漏らす。
一向にマフラーを外すつもりの無さそうな様子に、シャフトが呆れ果てたような視線を向ける。
「……でも住んでる場所とか知りませんし、次にここ来るまで返せませんね……」
「今日は暖かいからそれでもいい。しかし、もしも明日また急激に冷え込んだらどうする!?
マフラーも無しにそんな寒い中歩き回ってみろ!可哀相に、彼女は風邪をひいてしまう!
そして外にも出られず、ここにも来られず、俺は彼女に会えなくなるという事だ!
………なんて悲しく、悲惨な話だ……そりゃあ風が吹けば桶屋が儲かるわけだ……」
言いながら本気で悲しくなってきたらしいグラハムが、肩と声を細かく震わせ始める。
―――とばっちりが来るのも時間の問題だ。
そう判断したシャフトが、慌ててグラハムを慰めようと口を開く。
「……大丈夫っすよ。グラハムさんじゃないんですから、そんな寒かったら外にずっと出てませんって。
グラハムさんみたく誰かをひたすら待ち伏せしたり、グラハムさんみたく誰かの後をつけグバァッ」
しかしその慰めの言葉には若干余計な部分が含まれていたようだ。
グラハムが巨大なレンチでシャフトの鳩尾を一発、ブン殴る。
「うるさいぞシャフト、俺はそんなストーカーじみた行為は一切していない。
そして少し黙ってろ。俺は今、もしもあの子が風邪をひいた場合に家のどこから忍び込むべきか考えるのに忙しい」
レンチで自分の肩を軽くトントンと叩きながら、シャフトの方も向かずに言い捨てる。
会いに行くのはやっぱり窓からにするか、それとも季節を考えて煙突からにするべきか、と物騒な悩みを抱えているようだ。
「いてて……、ていうかやっぱりあの子の家知ってんじゃないですか!
まあもしも彼女が風邪ひいたら、グラハムさんが看病すればいいんじゃないすか?
マフラーを届けなかったお詫びだとか何とか言って」
「………!!!
それだ、シャフト!お前たまに頭いいな!」
こうして、シャフト原案の『あの子に風邪をひいてもらおう計画』は発動した。
「………うーん、何だかすごく悪い入れ知恵をしてしまった気がする……」
はしゃぎ回るグラハムを横目で見ながら、シャフトは一人、呟いた。