「今日はまあまあでしたねー、見張りもそんなに居ませんでしたし」
「……そうか?俺としてはもう少し体を動かしたかったんだが」
物騒な会話を交わしながら、グラハムとシャフト、その仲間たちが夜の路地裏を闊歩する。
一体どんな仕事を片付けてきたところなのだろうか。
仲間のうちの数人は軽い怪我を負いつつも、楽しそうに傷を見せ合ったりなどしている。
しかし、次の瞬間彼らは一旦談笑を止め、一斉にある人物に注目することとなる。
「……ひぃっ…!」
グラハムはゆっくりと振り返ると、声の主に視線を向けた。
その視線の先には、へたり込んでしまっている少女。
どうやら彼女は恐怖に腰を抜かしてしまっているらしく、その場から逃げ出そうとしているのだろうが、座り込んだまま小さく震え、ずりずりと後退る事しか出来ない。
買い物の帰りだったのだろう、地面に落ちた紙袋からはオレンジが幾つか転がってしまっている。
「グラハムさん、放っといて帰りましょう」
しかしグラハムはシャフトの声を無視しして、レンチを肩に預けながら彼女にずんずんと歩み寄っていくと、遠慮無しに目の前にしゃがみ込んだ。
「「………………」」
大きなレンチを肩に預けた作業服の男と、怯えきった瞳の少女が見詰め合う。
グラハムの部下達はと言えば、
またかと言うような溜息を漏らす者、可笑しそうに囃し立てる者、雑談や賭けを始める者など様々なメンバーが居た。
しかし、どの人間も決して二人の邪魔をしようとはしない。
シャフトも例外ではなく、呆れたように頭を掻きながら、グラハムの様子を眺めている。
「………………」
そしてしばしの間の後にグラハムは落ちていたオレンジのうちの一つを拾い上げ、固まったまま動けずにいる彼女の手に握らせた。
「落し物だ」
「………………」
オレンジを受け取ったものの、彼女は相変わらず無言で震えている。
いかにも柄の悪そうな集団を率いた、巨大なレンチを持った男が突然近付いて来たのだから、怖がらない方がおかしいと言うものだろう。
しかしグラハムはそんな当たり前の事に気付くことが出来ない種類の人間のようだ。
「悲しい、悲しい話だ!現代人と言うのは落し物を拾ってもらっておいて、礼も言えないのか!嘆かわしい!」
そう喚きながら、そんな普通の感性を持つ少女の頭を鷲掴みにして、早く礼を言えとばかりにじっと瞳を覗き込んだ。
「あ、ぅ!……ご…ごめんなさい、許して下さい……」
すっかり青ざめた顔の少女は震える唇をゆっくりと開き、蚊の鳴くような細い声を漏らす。
何故こんな状況に陥っているのか未だに理解出来ていないようで、ただ解放されたくて訳も分からず謝っているようだ。
しかしグラハムは彼女のそんな表情から目を離さぬまま、
「感謝されるのならばともかく、俺は謝られるような事をした覚えは一切無いのだが!悲しい、悲しい話だ!
…いや、ちょっと待てよ。ひょっとして彼女はド天然なのか?もしくは彼女は外国人で、言葉が理解できないのかもしれない!だとするとこれは悲しい話ではなく、何だか楽しそうな話だな!
まあ何でもいいや、とりあえず俺は感謝の言葉をもらう代わりとして、君の唇にキスをしたいんだが良いだろうか」
そう言いながら自分で自分を抱きしめるようにし、目を閉じて唇を突き出す。
言葉の通じない(とグラハムが思い込んでいる)相手にジェスチャーで伝えようとしているのだろう。
「…………」
「無言は肯定の合図、とよく小説や映画で見る気がする!その気持ち確かに受け取った!」
そしてグラハムはガッシリと彼女の両肩を掴み、ゆっくりと唇を近付ける。
「……いやっ!」
しかし、窮鼠猫を噛む。
追い詰められた彼女が、咄嗟に右の平手を繰り出したのだ。
パァンという乾いた音が路地裏に響き、グラハムの頬にはうっすらと赤い痕が残った。
二人を静かに見守っていた外野からは、どっと爆笑の渦が巻き起こる。
「……いたい」
まさかビンタを食らうとは予想していなかったらしいグラハムが、叩かれた頬に手を当て、瞳に涙を溜めながらポツリと漏らす。
すると少女は今がチャンス、とばかりに立ち上がり、転がったオレンジはそのままにスカートを翻す。
「……待て!」
仲間たちの笑い声をBGMに、グラハムが少女を呼び止めた。
「俺はグラハム・スペクターだ!…さあ言ってみろ!さあ!」
そして何を思ったのか一方的に自分の名を告げると、早く言えとばかりにレンチを振り上げた。
「っグラハム、……スペクター……?」
その仕草に驚いたのだろうか。少女は反射的にグラハムの名前を繰り返す。
「そうだ。……ああ嬉しい、なんて嬉しい話だ!君が俺の名を呼んでくれるなんて!!」
グラハムはそう叫ぶと、喜びのあまりレンチを夜空に向かって高く高く放り投げた。
彼の仲間たちもまた、わぁっと歓声をあげてめいめいに囃し立てる。
祭りの最中のような彼らを残し、少女は弾かれたように逃げ出した。
*
「あぁあもう何バカな事してんすか!」
興奮冷めやらぬといった様子のグラハムに、シャフトが呆れたように声をあげた。
「だってあの唇が俺の名を紡ぐところを見てみたかったんだ」
自己満足の塊のような回答に、いっそシャフトの口は開いたまま塞がらなくなりそうだ。
大きな深い溜息が漏れてしまう。
「……警察が取調べとかに来たらどうするんですか、知りませんよ」
呆れ果てたようなシャフトの視線も全く気にならないグラハムは、先程の少女の唇でも思い出しているのだろうか。
満足そうな微笑をたたえたまま、はっきりとした言葉を返した。
「大丈夫だ」
「……その自信は一体どこから……」
「何故ならあの子も盗みを働いたからな、警察には言えないはずだ」
「んな……、そうだったんですか!?全然気付きませんでしたよ……!!
……それで、あの女は一体何を盗んだんです?」
驚いたようなシャフトの問いに、グラハムは『よくぞ聞いてくれた』とでも言いたげな様子で口を開いて、
「俺の心だ!」
自信満々に言い放った。
あの子ほんとに可愛かったよなあ、と能天気に呟く上司を尻目に、シャフトは情けない声で呟き始める。
「………ひょっとしたらそういうオチが来るかなーって、心の隅では予測してたんすよ俺。
でも実際に言われてみると結構やりきれない気持ちになりますねえ、何だろこれ……」